まどれーぬの音楽帳

クラシック音楽(主にピアノ曲)が好きな主婦です。好きな曲、好きなピアニスト、再開したピアノレッスンのこと、コンサートの感想などを気ままに綴ります。

音楽評論家に求めるもの

先日、今の時代、音楽評論家は必要かどうか、という話題がTwitterに流れてきたので、常日頃思っていることを何気なく呟いてみた。以下が私の呟きである。(原文通り)

「音楽評論家の必要性…ある程度、自分の好みが確立してきちゃうといらない…かも。評論家が褒めてようがけなしてようが、自分が好きなものは好きだし、語り合いたければ今はネットがある。自分の好みに評論家のお墨付きが欲しいとは思わないし」from Twitter @madeleine-piano

 

普段、私は音楽雑誌は買わないし、新聞は取っていない(ネットニュースをざっとチェックするだけ)ので評論家のコンサート評を目にすることはあまりない。

CD、コンサートや演奏者の情報はほぼ100パーセント、インターネットを使って得てきた。シフのCDを買うきっかけになったのは、Amazonのレビューである。(本当)
お気に入りの演奏者たちを知ったのも、自分で何気なく見つけたYouTubeの動画からだったり、愛好者さん達のTwitterでの呟きや、ブログの感想文などからだ。
評論家の誰それ氏がオススメしていたから聴いてみよう!という動機で聴いたことは一度もない。
 
私が好きな演奏家は海外の方が多いため、必然的に最新情報もネットから得ることになる(その方が早いので)。演奏者のインタビューなどは、文字でも、動画でも豊富に見聞きすることができる。(語学の問題は多少あるにせよ、Google翻訳を使えば大意は掴める)
国内で自分が行きたくても行けなかったコンサート、もしくは自分と同じコンサートに行った人の感想は、早ければ数時間のうちに読むことができる。ネットで誰でも自分の意見を発信できるようになった現代、一億総評論家時代、とはよく言ったものだ。個人の感想は玉石混交だけど、自分の勘を頼りに辿っていけば、玉、に匹敵する感想や分析にもありつける。ネット様様である。
私が求めているのは、何より情報の鮮度であり、その場で生じた感動の共有であり、既にネットで知り得たのと同レベルの情報を後付けで知ったところで「ふーん」で終わってしまうのだ。
 
なんて即物的だ!底が浅い!と思われる向きもあるかもしれないが、クラシック音楽を熱心に聴くようになってまだ4年ほど、それで特に何も不自由してないのだから仕方ない。携帯電話しか知らない若い世代が、「固定電話ってなくても困らないよね」というようなもの。それぐらいのニュアンスで、私は「評論家って(自分にとっては)いらない」と軽々しく呟いてしまった。そこには、「評論家なんて社会悪だから消えてしまえ」という意図はまるでなかったことを分かってほしい。言葉足らずであったことは認めるが。
 
そのあと、とある音楽評論家/ライターの方が(私の呟きに反応したのかは不明だけど)Twitter上で猛烈に反対意見を述べられていた。
 
文そのものの引用は避けるが、だいたい以下のような内容だ。
SNSで感想が書けるから、評論家はいらないという意見を見た。
・評論家が招待状で聴いてることで一般聴衆に恨まれている。
・職業意識の底に、倫理観がある。(好みに合わない演奏を一刀両断する素人とは違う)
 
※ ()カッコ書きの部分は、前後のツイートからの推察。
 
あまりに斜め上からの意見で驚いてしまったのだが、そこまで過剰反応するくらいだから、音楽評論家というものがクラシック音楽ファン(特にオーケストラ愛好者方面?)に常日頃から強い風当たりにさらされているのだろうと想像できた。が、同時に、この方の言い分に強い違和感を感じたのも事実だ。
 
私は、招待状で聴いてるかどうか、というのは全く気にしたことがなかったし、この方の仰る倫理観とは、推察するに、どんな演奏であろうと奏者には一定の敬意を払うべきだ、というもので、それは寧ろ逆効果ではないかと思った。
なるほど、評論家の方だって人間だから、好みに合わない演奏にも良い部分を見つけなければならない、というプレッシャーは大変だろうな、とは同情する。
しかし、倫理観=敬意、となると、それだけで目が曇ったりしないだろうか。
敬意が高じるあまり、薄っぺらい美辞麗句で御託を並べるだけ、になってしまっては、素人の感想文と何ら変わりはないように思える。
 
評論家に必要な倫理とはそういうものではなく、演奏の本質を正確に読み取り、一般聴衆に分かる言葉で最大限に公平、公正に伝えようと勤めることではないだろうか。
それには演奏者と同レベルでの膨大な音楽的な知識が必要だろうし(恐らく、歴史的な知識含めて)、更にそれを素人にも分かるように噛み砕いて伝えるには並ならぬ文才が求められる。そして、今の時代、何よりも素早いスピードも。
新聞や雑誌に載せられた評論家の一言が音楽のずぶの素人の指標となる時代は恐らくとうに終わっていて(その段階での情報提供はネットに取って変わられた)、その分、評論家の有り方は、これまでより、遥かに高度な次元で要求されていくと思う。
時代が変わりゆく中、時代に合わないものは淘汰されゆくのが悲しいかな、現実なのだから。
 
ここまで手厳しいことを言ってしまうのも、自分がもっと深く音楽を理解したい、という欲求があるからだ。
今の時点では、私はクラシック音楽を芸術というより娯楽として楽しんでいるにすぎない。
古い音楽そのものに魅せられる、というより、自分と同時代に生きる人間が、古い音楽をどう解釈、咀嚼して、再現、再構築しているかへの興味が強いからだ。
その結果、表現されたものが自分の感性にフィットした時に限りない喜びを感じるのだが、それは表層的なもので、音楽の精神性や本質を理解するにはまるで至ってないと自覚している。
(例えば、シューベルトの最後のピアノソナタを聴いて、ふとした旋律に自分の孤独感を重ね合わせることはできるけれど、実際にシューベルトが旋律や和音にどのような具体的な意味を込めたのかは読み取れない)
冒頭の私のツイートにある「自分の好みが確立」とは、好みの演奏というだけでなく、聴き方も含んでいて、私のように勝手気ままに音源を聴きあさり、自己流な価値観を確立してしまうと、その後の修正は困難なように思える。
そこに歯痒い思いをているのは事実ではあるので、娯楽から芸術としての楽しみ方への橋渡しの役目、として、評論家の方々が頼りになるのであれば、願ってもないことだ。
一般愛好者たちは似非評論家を気取りながらも、自分では知り得ない情報を提供し、気付かなかった聴き方を示唆してくれる評論家 を求めていると思う。(少なくとも私はそうだ)
そこには誰からも忘れ去られていた演奏や、新しい奏者による演奏に価値を見出すことも含まれる。すでに評価が確立したものに、後付けで意味を付け加えるのは誰にでもできるのだから。
 
音楽評論家の方々には私たちが持ち得ない、豊富な知識と人脈があるのが前提だとして、それらを最大限に活かして聴衆をより高いレベルに啓蒙していってほしいと強く思ったのだ。